ダンボール箱をかぶって生活する男。
見ること見られることで、人は存在する。
ダンボールをかぶることで、他人から見られることを避け
小さな覗き穴から世界を覗いて生活していくと、
どのような存在となり、どのような心境となるのか
箱男の日記がそれらを語っていく
箱男は世間からは無生物あるいは関心外のものとして扱われる。
見られることに苦痛を伴う人によってはその扱い自体が心地よさなのかもしれない。
箱の中からの景色は、自分という存在が匿名化されたことにより
その風景は写真に写したかのように、関心による濃淡を失う。
ダンボールにより覆われ、みられず、濃淡のない世界に住むということ。
それは世界に対して第三者の立場であるということかもしれない。
通常の生活をおくる人にとっても、ときおり第三者になることは
魅力的なものとなる。
ダンボールから世界に繋がりたいという欲求は、覗き穴で満足しえるかしえないか。満足いかないときが、ようやく箱を脱ぎ捨てるときだ。
見る、見られるの境界としてダンボール箱が存在する
ダンボール箱ゆえに匿名の第三者になれるのだが、
その境界を失った時、人の存在は一体どうなってしまうのだろうか。
羞恥もなく、濃淡のない風景として街を歩いているというのは、
どのような心境なのだろうか。
見ること見られることで、人は存在する。
ダンボールをかぶることで、他人から見られることを避け
小さな覗き穴から世界を覗いて生活していくと、
どのような存在となり、どのような心境となるのか
箱男の日記がそれらを語っていく
箱男は世間からは無生物あるいは関心外のものとして扱われる。
見られることに苦痛を伴う人によってはその扱い自体が心地よさなのかもしれない。
箱の中からの景色は、自分という存在が匿名化されたことにより
その風景は写真に写したかのように、関心による濃淡を失う。
ダンボールにより覆われ、みられず、濃淡のない世界に住むということ。
それは世界に対して第三者の立場であるということかもしれない。
通常の生活をおくる人にとっても、ときおり第三者になることは
魅力的なものとなる。
ダンボールから世界に繋がりたいという欲求は、覗き穴で満足しえるかしえないか。満足いかないときが、ようやく箱を脱ぎ捨てるときだ。
見る、見られるの境界としてダンボール箱が存在する
ダンボール箱ゆえに匿名の第三者になれるのだが、
その境界を失った時、人の存在は一体どうなってしまうのだろうか。
羞恥もなく、濃淡のない風景として街を歩いているというのは、
どのような心境なのだろうか。
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