2012年4月26日木曜日

自己責任論からの離脱


タイトル通り、僕は自己責任論から離脱した。
今では自己責任という言葉に疑問を感じるようになってきたのだ。

怠けたり、酒に溺れたり、パチンコに浸るのはどこまで認められるのだろうか?
「愚行権」という概念を知ってからすべては始まった。」

ヒトには愚行権があり、社会的に迷惑をかけない限り愚かしい行為をする権利がある。
例えば、
・学校をサボって寝てたり
・パチスロにはまって借金を作ったり
あるいは
・経済的に合理的な選択を捨てて、興味を追求したり

・行動の選択は自由であるが、結果には責任が伴う
これが僕が信じていた「愚行権」と「自己責任論」だった。


この単純な論理に疑問をいだくまでに随分時間が必要だった。

「モデル化された場合に取り除かれる因子」
単純な論理を適用する場合には必ず考えなければいけないはずなのに。

・行動の選択は自由であるが、結果には責任が伴う
この論理で取り除かれた因子
それは
①選択が絶対的、相対的に平等であるということ
絶対的に平等とは選択肢の存在があるかないか
相対的に平等とは、選択者からの距離を示す

②選択者は合理的な決断を下すことができる

①については「持つもの持たざるもの」の話であり
つまらないし、ここでは無視する。


僕が自己責任論に否定的になったのは
②の理由のほうが大きい


・選択者の判断はすべて選択者の責任か?

選択者が選択する場合に関係する因子
①選択されるべき合理的行動
②選択されるべきでない非合理的行動
③選択者
④①を促す刺激
⑤②を促す刺激

この因子を自己責任論にまとめると
「③は①をとるべきだ、しかし③は②をとった。
 結果得た不利益は③の選択が悪いのであり、自己責任だ」
となる


ちなみに
③に①が与えられない=絶対的不平等
③にとって①は遠い=相対的不平等
となる

③が選択肢を選ぶ過程を考えてみる
いま③に①と②の選択肢がある。距離は同じと仮定する。
③が①や②に近づくには④や⑤が必要である。

④は適切に③に与えられているか
⑤は適切に③から引き離されているか
これは③の環境因子だ。

進学校には勉強する雰囲気があるように
裕福な家庭ではこの環境因子は適切に働き、貧しい家庭では不適切に働くことが多い
環境因子と行動が世代を経て、階級の固定となる。
だからこそ教育の重要性が指摘されているのだろう。


でも次の病態のほうがもっと面白い
「④、⑤に対する③の反応性は③の責任か?」

少しの労力で多くの結果を出す能力の違いはよく認められている。


では
少しの④で①を選ぶ性質は?
少しの⑤で②を選ぶ性質は?

あるいは
多くの④でも①を選べない性質は?
多くの⑤でも②を選ばない性質は?

つまり
「刺激」に対する「反応性」は個人の選択で選んだものではないのでは?
 
 生まれつきの「反応性」、環境の「刺激量」によってなされた「選択」に
 無制限の責任が伴うのか?

「努力」も才能のうちなんて、ただの慰めかと思っていたけど
一定の刺激で「努力」という行動①が選択できる「反応性」は才能ではないか。

そんな風にして僕のなかから自己責任論は消えていった。
ただし、この論理で自己責任論を否定すると
「自由」の問題を引き起こす。

③が①を選ぶためには
・③の反応性は変えがたい
・②の選択肢を奪う
・④を増やす
・⑤を減らす
さらに①②の行動は誰が決めるのか?

③以外のものが①②を決定し
③の意志と無関係に②の選択肢をなくし
③に対して④を増やし、⑤を減らす
「愚行権」を認めない、まるで商品管理のようになってしまう。


こんなことをツラツラ考えていると
「自己責任論」は残酷すぎるなーとも思うようになったのです。
犯罪に対してこの考え方を適用すると、もう手が付けられなくなるけれども。





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